情報倫理は、コンピュータに代表される近年の情報技術の発達が、より快適でより人間的に生きたいと願う現代社会のひとりひとりに要求するものである。
コンピュータは、われわれの生活にとって、今やなくてはならないものだ。「情報化社会」という言葉じたいは以前から叫ばれてきたが、1995年ごろからのパソコンとインターネットの一般家庭への本格的な普及によって、とうとう現実のものとなったと言える。ネットやメール、デジカメ、CDやDVD、ワープロやゲームその他のソフトなどなど、いわゆるIT(情報技術)は、現在のわれわれの仕事、生活を支える不可欠なものとなっており、そのあり方はわれわれの生活をおおきく左右するようになったのである。
たしかに情報化によってわれわれの生活は便利で豊かなものになった面もあるが、一方では「情報」をめぐって多くのトラブルや問題が生じているのも事実である。例えば、クレジットカード会社からの個人情報の流出、蔓延する迷惑メール、CDやDVDの違法コピー、新種のウイルスの流行、不正アクセスなど情報関係のトラブルがニュースに流れない日はない。また著作権法改正や不正アクセス禁止法など、毎年のように新しい法律が提案されたり施行されたりしている。そして、インターネットやソフトウェアの世界では新しい技術や新しいサービスが次々に現れ、そのたびに仕事や生活のあり方が大きく変化する毎日である。
このように次から次へと現れてくるトラブルや急激な変化が引き起こす不安に対して、われわれ一人一人は、そして社会全体としては、いったいどのように受け止め、どのように対処したらよいのだろうか。現代社会を生きるひとりひとりは、このような問題を冷静に理解し、より豊かで快適な生活を実現するという観点から慎重に評価して、適切な判断を自分なりに下せるようになることが求められている。このニーズに応える方策のうち、もっとも基本的であり、またあらゆる場面で要求されるのが情報倫理なのだ。
情報化の引き起こす具体的な問題に対しては、以前は単に技術的な対応や法的な対処だけが議論されることも多かった。これに対して、なぜ技術や法だけでなく、倫理的な配慮が必要なのかを考えてみよう。
デジタル化されてひとたびインターネット上に置かれた音楽や絵画などは、もし何の制約もなければパソコン上でファイルをドラッグ・アンド・ペーストするだけで誰でもごく簡単にコピーできる。これに対して、権利者から許可を得ていないとコピーできないような技術を開発することで、コピーし放題の状況にストップをかけることが考えられるだろう。あるいは、権利者の許可なくコピーすることを禁じ、そのような不法なコピーに対しては厳しい罰則を設けることで、自由なコピーという状況を法的にコントロールすることも可能であろう。そして最後に、学校やマスコミなどを通じて、他人の創作を尊重する必要性と態度を倫理として教育することで、これを制御する方向も考えられるのである。
ここで、技術と法と倫理は、独立では問題を解決する力はなく、おたがいに協力してはじめてトラブルを解決し問題に答えを出せる可能性が開けるということがポイントである。
技術による対処だけでは、コピー防止技術を開発すれば防止機能を解除する技術が開発されたり、新しい暗号を考案するとこれを解読する方法が見つけられたり、どうしてもイタチごっこになる。コストばかりがたまっていき、問題は解決されない。また、法は効力を発揮するには警察・裁判などの大きな社会的コストを要求し、そのため効果的に威力を発揮するには、社会的に見て大きな害のある行為に限って取り締まるほかはない。もしささいな点まで法でコントロールしようとするなら、取り締まる側も取り締まられる側も経済的・精神的に大きなコストを覚悟しなければならないだろう。
一方倫理の場合には、もしこれが完全で均一に社会に行き渡っていれば、技術的な対処も法的な対処も不要でありその意味では低コストで快適な社会が実現するかもしれない。だが、現実には立場や考え方によりさまざまな倫理があり、また倫理には倫理を持たない者・従わないものを強制的に束縛する力はない。従って、もし法や技術による抑制力ないし強制力がなければ、倫理は一定の効力を発揮できないか、あるいはごく少数の非倫理的人間によって大きな被害が出てしまう可能性がある。
情報技術そしてテクノロジーがわれわれの社会や生活に引き起こす諸問題に対しては、法や技術の潜在的な支持の上で、その開発者であれ利用者であれその社会のメンバーが倫理を尊重して行動するというのが一番の処方なのである。こうして、情報化社会の諸問題を解決し、われわれの生活を豊かで安全なものとするには、まず倫理を基本とした情報文化をつくること、そしてそのバックアップとして法を効果的に整備すること、そしてそれらを可能とし効率よく機能させるような技術を開発し採用していくことが必要だということが分かる。web上だけでなく、職場においても家庭生活においても、それぞれが情報化社会における確かな倫理を持ち周囲と共有していくことで、コンピュータと情報が大きな割合を占めるわれわれの生活はずっと快適なものとなるだろう。逆にもし倫理がなければ、インターネットもパソコンも、情報技術はわれわれをいらいらさせ時間と労力と誇りと人間性を奪い、われわれを追いつめるだけの道具となってしまうだろう。
単なる知識としての情報倫理、ルールブックとしての情報倫理は、変化の激しい情報技術の世界ではすぐに無用の長物と化してしまうだろう。だから情報倫理の学習は、コンピュータやインターネットの使用について与えられたルールを暗記することではない。情報技術の現状と本質に配慮しつつ、既存のルールの必要性を理解し検討する力、そして新たな適切なルールを作り尊重していく力と態度を身につけることである。
すこし踏み込んで考えてみよう。情報技術の引き起こすさまざまなトラブルや問題の核心には、従来のわれわれの生活を構成していた社会的DNAというべき諸概念の織りなすシステムのゆらぎにある。
例えば、「人間」という概念は、「人格」「人権」「理性」「自由」「責任」などの諸概念と有機的にリンクして、われわれの社会システムの骨格をなしている。現代の日本社会では、「人間」という概念をベースに、人権が保障され、子供が教育され、雇用契約がなされ、何かが購入されたり所有されたりし、行政サービスが供給され、こうしてわれわれの文化的・人間的な社会生活が実現されている。
だが、いよいよ本格化しつつあるロボットや人工知能の生活への浸透によって、これらの概念は大きく挑戦を受け、組みなおしが求められるだろう。例えば、もしロボットが理性を持って物事を判断できるなら、ロボットにも自由と責任を認め、ロボットにも人権を認めたほうがよりよい社会になると考える人間が出てくるかもしれない。もっと身近な例では、自分が気軽に作ったホームページや気軽に送った電子メール、デジカメで撮った写真を考えてみればよい。「著作権」ということがやかましく言われる昨今、写真などのデジタル・コンテンツをめぐって「表現する」とか「所有する/盗む」などの基本概念が新しいものに新しくシフトしつつあることが分かるだろう。このように、情報技術の発達によってもたらされた概念のゆらぎは、われわれの社会と生活を根本的なところからゆるがしているのだ。
このゆらいだ概念をめぐって、実はさまざまな団体・個人によって、さまざまな提案や実践、そして駆け引きが行われている。そして、この成り行きによって、概念は固定されていき、われわれの生活は大きく方向づけられるのである。例えば、アメリカではマイクロソフト社やディズニー社が情報の所有の概念と著作権のありかたを巡って、自社の利益を確保するような方向でサービスや技術的な開発を推進するだけでなく、行政や司法に強く働き掛けていることがよく知られている。
ルールに従って行われるひとつのゲームがあるなら、ルール自体を自分に都合よく設定することが、ルール違反をせずにすむ必勝法である。しかも、急速に発達する情報技術の分野では「デファクト・スタンダード」ということがある。つまり、十分な議論や決定を待たなくとも、そのルールを社会に普及させたもの勝ちということである。実際、社会への人間的な配慮や豊かなビジョンなしに、目先の自己の利益や便利性、競争心だけによって、十分な議論なしに新しい概念やルールが決定されたり、実力や策略によってデファクト・スタンダードとして設定されたりしている可能性もあるのだ。
ここで、単なるルールとして、あるいは知識としての情報倫理では、1,2年間使える「ハンドブック」として以外、何の力にもならないことがわかるだろう。それでは、社会における概念のゆらぎにシンクロして揺れる社会のあり方と共に右往左往するか、あるいはせいぜいデファクト・スタンダードを固定させるのに一役買うかでしかないのだから。必要なのは、概念のゆらぎがどうして生じたのか、またそのゆらぎがどのようなゆらぎであるのかまで踏み込んで問題を分析・理解し、新しく提案された概念を人間的な観点から批判的に評価したり、これからの社会へのビジョンを持って自ら概念を提案したり推進したりする力なのだ。これは、情報化社会を生きる、つまり情報技術によってサポートされたこのゲームに参加している、現代社会のすべてのメンバーに好む好まないに関わらず求められている、必須の力なのだ。
だから求められている情報倫理とは、単なる「ネチケット」のようなルールブックではなく、情報化社会の諸問題をトレースし、新しい問題を見積もり、自分で評価するための積極的な態度と基本的な知識、そして柔軟でクリティカルな判断力なのである。情報倫理を学ぶとは、ルールに盲目的に従うことやルールを丸暗記することとは全く異なり、むしろルールを自分なりに評価する実践的な力をつけることなのだ。そのために、現実社会における問題の扱われ方を批判的に評価したり、問題のルーツや背後まで踏み込んで理解したり、問題の概念的なレベルまで踏み込んで自分の意見を構成するといったトレーニングが必要なのである。
情報倫理は、応用倫理学の一分野として研究されている。応用倫理学は、現代医療における生命と人間性の問題や、環境破壊や自然保護をめぐる諸問題など、いわゆる「倫理の空白」の生じている具体的な問題に対して、よりよい人間生活のあり方やよりよい技術のあり方を考える学問だ。情報倫理は、情報技術の引きおこしている問題について、人間らしい生活、そのための適切な技術のあり方を考えるのである。
具体的に本書で取り上げるのは、個人情報の扱い、著作権の問題、セキュリティとハッカー倫理、人工知能の可能性と評価などのトピックである。これらは、いずれもコンピュータを中心とする情報技術の発達によって引きおこされている問題であり、ときに「コンピュータ倫理学」として検討されることもある。本書で取り上げるトピックについて、順に簡単にポイントを確認しておこう。
個人情報については、個人情報の流出や適切な利用といった問題を扱う。ただし、自分自身や顧客の個人情報の流出や悪用を防ぐにはどうしたらよいかという話にとどまらず、個人情報がなぜどのように利用されるのか、適切な個人情報の利用とはそもそもどのようなものか、といった問題について、より快適な生活、安全な社会の実現という観点から検討する。
次に扱う著作権のトピックでは、単に違法コピーをしてしまわない・させないといった観点にとどまらず、より豊かな社会と文化的な生活の実現という観点から、なぜこの社会には著作権があるのか、どのようにこの権利を評価し、育てていくべきかという点まで踏み込んで考える。
つぎの、セキュリティーとハッカー倫理では、パソコンやインターネットを生み育ててきたと言われるハッカーたちをクラッカーと区別して、その情報技術思想に焦点をあてる。そしてネットやパソコンといった技術に潜んでいる意図と方向性を理解し、クリティカルに評価する。その上で、情報技術者の責任やイニシアティヴ、これから適切な情報技術の管理と発展の方向性について考えよう。
最後に、人工知能、バーチャル・リアリティ、ユビキタスといったトピックでは、これから身近になる情報技術に焦点を当て、これらがどのような問題を引き起こすか、これらの技術をどう評価しコントロールすべきかといった問題をあつかう。これらの技術については、まだ法整備の段階には至ってはいないが、実はすでに商品化がはじまり急速に社会に浸透しつつある。近い将来、これらのテクノロジーの利用については深刻に論議される日がくるだろう。
こうして、情報技術の引き起こしている、そして引きおこすだろう諸問題の検討を通じて、情報とコンピュータ技術とのつき合い方を順に考えていく。取り上げるトピックは、まとめて見るなら、実は人間や環境のある側面を情報として扱うことによる問題であることが分かるだろう。つまり、個人個人の特定の性質を個人情報に置き換えて管理・操作すること、個人の思想や内面の表現である著作物をコピーしたり所有しうる情報として扱うこと、社会において個人や組織の持っていた経験や知識をネットワークに置き換え共有すること、そして人間や環境自体をコンピュータで実現しようする試み、というわけだ。
本書全体を通じて、このような一般的問題にもいわば哲学的な思いを凝らしていただければ、筆者にとって本書での意図・企画を越えた喜びである。
第一部では、事例を扱う。これは本書のメインであり、これだけで本書の基本的な目的は達成される。知識ではなく、事例について分析し評価する力をやしなう。
事例学習の必要性。――云々――。
第二部は、基礎知識編である。これは第一部の補強であり、第一部の目的をより効果的に達成するためのサポートである。第二部の内容を押さえることで、情報倫理の各とピックについて素手で立ち向かうだけでなく、いわば武器をもってプロフェッショナルに(これは難しくとも、トレーニングを受けたなりにシステマチックに)さばけるようになるだろう。
また、紹介された事例についてよりバランスよく、より深く理解できるだろう。
また、第一部の問題意識を発展させるための手がかりともなる。第一部の事例の背後にどのような問題が存在しているか。――云々――。
巻末には、リンク、参考文献、法令抄録を載せた。情報ソースを供給すると共に、さらなる学習に資するためである。
エッセーは、専門家に依頼し、事例や考え方を紹介してもらい、各トピックについてまた別の視点から興味を深めるものである。
FDの持ち出し事件(宇治市)→社会的に管理意識の必要性
フィッシング詐欺(web上)→個人個人の自覚・自衛の必要性
一人にしておいてもらう権利→自分自身に関する情報のコントロール権へ
やってみよう個人情報保護法QandA→法の解説
やってみようプライバシーポリシーの作成と評価→5原則の確認
「マス」から「ワントゥーワン」へ→ビジネスモデルの変化
コンピュータ・マッチングの例→新しい流出のパターンと発見的なDB利用
住基ネットをめぐる論争→デジタル化のリスクとメリット(人格と正義の両立)
海賊版DVD、ファイル交換による音楽の違法コピーと、クリエーター・業界の怒り
著作権法QandA やってみよう著作権法7問
特許権、商標権(キャラクター・ドメイン)、肖像権、名誉
近代と印刷術<図師先生のチェック>→歴史的経緯による理由の説明
功利増大のサイクルと著作権法(第一条)→功利主義など倫理学による理由の説明
ナップスター、Winny事件→デジタル化とネットワーク化によるゆらぎ
法改正→送信可能化権の制定
レッシグのアイデア<C.C.>とプロジェクト→批判と評価
HP書き換え事件など→ハッキング(クラッキング)事件の多発
なりすまし、改ざん、メールボム、ウイルス→傾向と対策
法の未整備(FD窃盗事件)→不正アクセス禁止法へ(法解説)
「人助けハッカー」ラモの物語→クラッカーと区別されるハッカーとは
愉快犯や悪意か技術的ないし社会的関心か→定義と意図による区別
クラッキングとセキュリティへの攻撃→セキュリティ保護の原則
ミューラー・マグーン氏の談話→ハッカー倫理
『WEBの創世』とハッカー→現在のIT技術に見られるハッカー倫理
リナックス・プロジェクト→不正アクセス禁止以後のハッカー的なイノベーションの可能性
鉄腕アトムやアイ・ロボットの世界→コンピュータの歴史と人工知能の夢
フレーム問題と中国語の部屋、(機能、知能、知性、心、意識)→人工知能の挫折
エージェント、エキスパートシステム→現実的なAIの商品化:知能と責任能力
マトリックスの世界 夢とVR→VRの可能性
ポリゴンの世界→CPU、メモリ、プログラマ的限界がある。
テレプレゼンスの活躍→インターフェースシステムとプログラマの責任
ダスト・コンピュータ→「どこでもコンピュータ」の可能性とパワー
バーワイズの思い→静かなコンピュータ、AIとVRを取り込んだ現実世界のコンピュータ化
『1959年』→人、環境、情報のバランスとコントロール、自覚。
· 個人情報保護法
· 著作権法
· 不正アクセス禁止法
· 未来法案:ロボット3原則(ロボットの権利・義務、開発規制を定める。)
· 未来法案:VR法??(バーチャル世界で許されないこと。暴力とセックスの規制。現実世界との関係を定める)
· 未来法案:ユビキタス法(誰がどこに、どの程度のコンピュータを入れてよいのか。)
· 概説、解説サイト。できるだけオフィシャル、せめて法人の運営するサイト
· 関連団体サイト。管理、メンテナンス、学会、行政、企業団体
· ニュースサイト。情報、IT分野の新聞、ネットニュース
· 新書類。読みやすいものは新書でなくても可。
· 原典(基本的には翻訳のあるもの)
· 論文。英語可でその分野の基本論文を少々紹介。